エホバ2世の歩き方【おのれと戦え!その2】

『よるくま クリスマスのまえのよる』という絵本がある
(「エホバ2世」とクリスマスについては、いつかじっくり書きたい)
この絵本のテーマは、色々な人に響くとは思うが、「エホバ2世」には強く響くと思う

あらすじを紹介する

「クリスマスのまえのよる 友だちの『よるくま』が ぼくのところに遊びに来る。ぼくは『よるくま』に「ぼく わるい子だから サンタさんが来ないかもしれない」と話す。しかし、『よるくま』はサンタさんを知らない。そんな『よるくま』に ぼくはサンタさんの真似をしてプレゼントをあげる。『よるくま』はおもちゃの飛行機に乗っておうちに帰る。おうちでは『よるくま』がお母さんにやさしく抱っこをされている。ぼくは「いいな よるくまはいいな 小さいしかわいいから 抱っこしてもらえていいな」と思う。すると、だんだんと ぼくの体が小さくなって…」

この絵本のテーマとなるこどもの気持ちは「ぼく わるい子かもしれない」だ
だから愛されないかもしれないし、プレゼントもないかもしれない
そして無条件に愛されている『よるくま』を見て「いいな」と思う

おれは「いいな よるくまはいいな」のくだりでどうしても泣いてしまう

おれたちは無条件に愛されていただろうか

そりゃおれたちの親の誰も、徹頭徹尾「鬼か畜生」というわけでもないだろう
か弱い生き物として赤ん坊のおれを懸命に守ったと思うし、大切に育てたのだと思う
しかしおれの実感としては、「無条件」というのとは程遠い

「条件付きで愛されていた」という方がしっくりくる

そして「わるい子かもしれない」という不安は常に抱えていたと思う

おれは、大体のエホバ2世と同様、色々な理由で母親から「むち棒」で尻を叩かれた
だけど、おれは今、母親に対して「むち棒で叩かれた」ことへの恨みなんか全く抱えてはいない
ただ「親が怒っているか」という不安を常にこどものおれに抱かせたことは問題だと思う

親だって人間だし、ある程度大きくなれば、こどもだって気を遣う必要はある
家族として協調したり協力するべき場面もあるだろう
しかし、おれが抱いていた「罪悪感」と「被支配感」はもっと自由度の低いもの

「好きにしたら怒られる」くらいの束縛を感じるものだった

おれはむかし、母親からこんなふうに言われたことがある

「あなたが生まれる前に、この子の一生を神に捧げると、神にお祈りしたのよ」

おれは生まれる前から、おれはおれのものではなく、主体性を取り上げられていたらしい
なかなかの「呪いの言葉」ではないか

もしおれが生まれた時から何より自由を欲していたのなら

おれが最初から「親の愛と保護」より「おれの自由」の方が大事だったなら歴史は違っただろうか
もしおれが「呪いの言葉」などものともせず、「反抗的な子」として生きたなら

まずは、大人たちから厳しく責められ、むち棒で叩かれ、「教えられた」だろう
それでも自由を求めていれば「条件付きの愛」も注がれず、否定された存在になっただろう
それでもたくましく大きくなれたら、世に憚る憎まれっ子として成長したかもしれない
あるいは人格形成に問題をきたして、今のおれとは違う苦労を味わったかもしれない

最初っていつだ?
産声を上げた瞬間か?

おれは生まれた瞬間、「おれは自由だー!」と泣き叫んでいただろうか
息苦しさから、とにかく必死で呼吸をしようとしていたのではないだろうか
感情があるとするなら、恐怖心と不快感で泣き叫んでいたのではないだろうか

おれには「愛と保護」が必要だった

人間として、育っていくために
生命体として、生きていくために
おれに「愛と保護」を与えてくれたのは、間違いなく母親だ

ただし、おれがエホバに一生を捧げるならの話だ

母親は、おれが生まれる前から、おれの自由など認めていないのだから

赤ん坊の頃は、そんなことに葛藤など起こらない
母親が世界の全てだ
「わかったよお母さん」「エホバって素晴らしい神様だね」「ぼくはいい子だよ」
こんなふうにして、与えられたミルクをごくごく飲んでいたわけだ

エホバの証人の世界観や価値観を教えられ、従い、条件付きで愛と保護をもらった
そうやって生まれた時から育っていけば、細胞にまで染み渡るのも無理はない

母親は正しい、だからエホバも正しい
そのために生きるのは、正しい生き方だ
愛情も注がれる、生きるために必要なものも与えられる

しかし、遊んでいたいとか、「奉仕」に行きたくないとか、自分の意志が出てくると怒られる
すぐに母親の愛情が取り上げられるわけではなかったのだろうが、否定される
罪悪感が生じる

ぼくはわるい子だ

母親を怒らせてはいけない

おれは断じて言う
これは「むち棒」の恐怖ではないのだ
「親の条件付きの愛情を失うことの恐怖」なのだと

おれは「いくらでも叩きたいだけ叩けよ。おれはもうあんたの愛情なんていらねえよ」なんて、言えなかった
もし何かの拍子で言っていたとしても、その覚悟も実力もなかっただろうけど

じゃあ今なら「いらねえ」と言えるか

なんだかんだで時がたって、今は母親の保護と愛情がなくても生きられるようにはなった
じゃあ今なら「おれはもうあんたの愛情なんていらねえよ」と言えるだろうか
おれが、どうにも逃げられない状況で、母親の熱烈な「帰っておいで」攻撃を受けたなら言い放つだろうな
だけど、わざわざ宣言する気はないな
今のおれなら、母親の「帰っておいで」攻撃が再燃しても、家に近寄らないことができる
もう、おれにはおれの家があるからな

生きるための実力を身につけろ

人間関係を築くこと、働くこと、そして自分の家を作ること
おれはこのほとんどを、エホバを離れ、実家を離れてから学んだ

参考になる人間はいない
青春を共にして、一緒に成長した仲間もいない
人を傷つけながら、おれも傷つきながら、学んできた

おれは、ほとんど全てのエホバ2世が似たような経験していると思う
親からの保護と愛情か、自分らしさと自由を求めるか
葛藤してきたと思う

恐怖もしてきたと思う

悩んで苦しんで、人の世でうまく息ができなくて、人と大切なものを共有できなくて
悩みや辛さは怒りとなって、それをエホバの証人に向けたことがあると思う

今も戦っている人もいると思う

心の中だけでなく、もっと具体的に戦っている人もいる
そういう人は、自分が納得できるまでやり切るしかないかもしれない
おれは戦わないけど

おれは戦わないけど、まだ心の中では整理しきれていないかもしれない

いや、きっとそうだろう
だから書いているのだから
だけど、親への恨みを晴らしたとしても、エホバの証人に2世の苦悩を知らしめたとしても
本質はそこじゃないんだ

自由になりたかったんだろう?
だったら自由になろうよ

中島みゆきさんは、『空と君とのあいだに』という歌の中で「憎むことでいつまでもあいつに縛られないで」と歌っている

そのためには、おれたちが生きていく実力を身につけていくんだ
そして、自分らしい価値観、大切なもの、目標、そして大切な人を見つけるんだ

おのれと戦え!

ようやくエホバの証人から抜け出して、世間を知れば知るほど、おれたちは無力だ
分からないことだらけだ
でも、学んで、経験して、身につけていくしかないんだ

だから、いつまでも親と戦ってんじゃねえ

そんなものは、自分の心の中の幻だ

エホバの証人と戦ってんじゃねえ

そいつはもうおれたちとは関係ねえ

おのれと戦え

無知と無力を知り、正面から受け入れて、必要な力を一つ一つ身につけて
自由に生きていきましょうよ

続く

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